31 1月

沈黙する姿と存在感の大切さと重み

最近、想起することがあります。それは私が小学生の時に召されたお母さんのことです。どこで生まれ、何故、日本に来たのか。そして、お父さんとどこで出会い結婚したのか、誰にも聞いたことがないのです。勿論、両親が、日本に何故、存在するのかは、日本と朝鮮半島の歴史的背景から学ぶことができます。
さて、家は貧しく、お母さんとお姉さんたちが、一生懸命に内職をして、家計を助けていました。お姉さんたちは、まともに学校もいけなかったようです。お母さんのことですが。今、思えば、お母さん自身が病にあったことがわかります。お父さんよりも一年先にガンの病で他界したからです。
私には、どうしてもわからないことがひとつあります。それは、お母さんの言葉…一言も…記憶の中に残っていないということです。何も語らず、寡黙な人であったことはわかりますが、私の心には、お母さんの言葉が残っていません。お父さんの暴力にも耐え、病院にも行けず、病にも耐え、沈黙のうちに召されたお母さんの言葉。お父さんが暴力をふるったことは、私の心の傷となり赦せなかった日々が続きましたが、今はその心は解けました。しかし、お母さんの言葉(ロゴス)が、一言でも残っていれば…とおもう日々をおくりながら、歳を重ねる私がいます。その中にあって、今、私が言えることは、人間の「沈黙する姿」と「存在感」の大切さと重みであります。言葉は、年月の流れとともに流れ去るときがありますが、「沈黙する姿」と「存在感」は、流れ去ることはなく、私の脳裏に刻み込まれていることがわかります。そこから人生をどのように生きて、どのように人間存在と向き合うことが、「まことなる」ことかを学ばせてくださったお母さん、お父さんありがとうと、しずかに心の中で叫びたい心境です。
私が、今、ここに存在することが赦され、いかされて生きていることに感謝しています。